池田名誉会長の「~万遍あげると」という題目のご指導は実在しない
下記の8行の「池田先生のご指導」といわれているものですが、これはウソ(実在しない)のご指導です。ご注意ください。
それを理解した上で参考にして、自らの意思で題目の目標を定めて、唱えきっていくことはよいと思います。
このご指導ですが、どうやら、東京創価学園の栄光寮のとある寮生が部屋に貼っていたもののようです。池田先生のご指導ではなく、先輩からの指導、または自分で作成したのかもしれませんね。
(下部で、なぜこの指導が実在しないものなのかを、検証します)
--ネットで流通している実在しないご指導--
2009年1月、ある学園生が、池田先生に
「お題目を、あげるとどうなるんですか」との質問しました。
先生は次のように答えられました。
1時間あげると、自分が変わる。
2時間あげると、相手が変わる。
3時間あげると、周りが変わる。
5時間あげると、奇跡が起こる。
100万遍あげると、福運を感じられる。
700万遍あげると、人間の基底部が変わる。
2000万遍あげると、逃げても、逃げても福運がついてくる。
7000万遍あげると、信仰の王者になれる。
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それでは検証してみましょう。
(検証1)題目の時間や数についてのご指導
「信心をしているのだから、必ず宿命転換はできます。絶対に病は治すと決めて、題目を唱え抜いていくんだよ。二百万遍、三百万遍と、真剣に祈り抜いていくんです。何よりも、″病になんか負けるものか!″という、強い一念をもつことです。いいですね」(小説『新・人間革命』第29巻 力走)
このように、池田先生が、実際に、題目の時間や数を示されたご指導が若干あります。
例えば、昔のご指導で「一日、三千遍のお題目をしっかりあげなさい」というのがありましたね。またかつて、池田先生ご自身が、「未熟な私ではありますが、全学会員の一人一人に真剣に題目を送っております。その題目は、たんなる形式ではなくして、全魂を打ち込んで大御本尊に二百万遍、四百万遍、五百万遍の題目をあげております」(「第85回本部幹部会」)と話されたことはあります。
しかし、これ以上の1000万遍を超えるような具体的な時間や題目の遍数を示されたご指導は残っていません。ましては、2000万遍、7000万遍、というご指導を、いきなり学園生にされるとは考えにくいです。
(上記の他にありましたら文献を教えていただきたいと思います)
(検証2)学園生から質問を受けられる機会
そもそも、池田先生に「題目を唱えるとどうなりますか」という質問ができる学園生というのは、仏間のある「寮生」または「下宿生」(自分の部屋にご安置していれば)です。しかし、1998年以降、池田先生は栄光寮に訪問されていません。また2010月3月を最後に、池田先生は創価学園への訪問はされなくなりました。このように、池田先生の学園訪問の最後の時期に、「創価学園の校舎で信心指導をされる」というのは、あり得ないことです。よって、2009年1月というのは、かなり信憑性の乏しい日付けなのです。
(この時期に学園生だった方に話を聞きましたが、質問会など、先生と直接やりとりができる機会はなかったとの証言もいただきました)
(検証3)「奇跡」という言葉
池田先生が「奇跡」という言葉を使用される場合の多くは、対談集の中で、一般的な事柄について、また相手の思想を引用しながら使用しています。例えば、「(ある国家)の繁栄の奇跡」「大自然の奇跡」など。
しかし、池田先生が日蓮仏法を語る際に「奇跡」というワードを肯定的に使われたものはほぼ見当たりません。
著書『生命と仏法を語る』のなかで、池田先生は「いわゆる“奇跡”ということは、仏法では説かれていない。その説く根底は、すべて「因果論」であり、「因果倶時論」なんです。」と語っております。
「題目の唱え方」についてのご指導の中で、突拍子もなく「奇跡」というワードを使われることには、大変な違和感、矛盾があると思われます。
(検証4)間違った成仏観
「2000万遍あげると、逃げても、逃げても福運がついてくる」とありますが、2000万遍に達すると、何か「上がり」みたいな状態になるのでしょうか。これは、「成仏」を意味しているのでしょうか。
私の知人に3人、2000万遍を達成した方がおります。みなさん、日々自らの課題に、また広布の戦いに格闘しながら、凄まじい勢いで題目を唱えておりますが、「一段落した」という言葉も聞かれませんし、そのような態度もありません。
その次の行の「信心の王者」も「成仏」を示しているのでしょうか。「7000万遍」とどのような関係があるのか、つながりになっているのかさっぱりわかりません。
(結論)これは池田先生のご指導ではない
どうやらこの「ご指導」の正体は、学園の寮生が自らを鼓舞するために、掲げていた目標で、後輩たちに引き継がれていたものではないか、と思われます。
「10年、20年、30年、40年、と苦労しながら題目を唱えに唱えて進んで欲しい。信心だけは勇気をもって前進してほしい」(第1回牙城会柔剣道大会)
「御聖訓どおりに、苦しくても題目、楽しくても題目、いかに行き詰まってもひたすら題目を唱えぬいていくところに、絶大なる希望がおのずと涌現するのである」(「広布と人生を語る」①)
「広布の世界のなかで、ともかく題目をあげ抜いた人が最後には勝つ」(『創価のルネサンス』48)
など、「何があっても題目」「題目を唱え抜く」ということが基本であると池田先生は教えてくださっております。
たしかに、題目に挑戦しようと決意をする方にとっては、このような具体的な数値のご指導があれば、目標にもなるし、励みもにもなるとは思います。
しかし、偽物は偽物です。自身の教学力でしっかりと見破って、もっともっと自身の決意を揺さぶられる御文や池田先生のご指導をもとめていくことが大切ではないでしょうか。
以上、池田先生のご指導についての検証でした。
【追記】
「創価学会の歴史と確信」において、戸田先生は次のように言われています。
「ちょうど、牧口先生のなくなったころ、私は二百万ぺんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、ご本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった」(「創価学会の歴史と確信」)
「戸田の獄中での唱題は二百万遍に達していた。そして、彼は法華経の真意を悟り、地涌の菩薩として自分がこの世で果たすべき大使命を知ったのであった。
広宣流布、すなわち、人びとの幸福を実現するという、久遠からの尊き使命の自覚は、自己の苦悩という、小さな生命の扉を突き破り、大宇宙の生命の大空へと、自らの境涯を飛翔させていったのである。
そこに戸田の、偉大なる人間革命の輝ける軌跡を見ることができる。」(小説『新・人間革命』第5巻 歓喜)
私はこの戸田先生の悟達につながる「二百万遍」だけは、心に留め、2020年から2021年にかけて、1年間で300万遍の題目を唱えました。年間300万遍は簡単なことではありませんでした。
実際、100万遍を超えても、全く何も変わらない厳しい現状に心が折れそうになりました。そのときに、『人間革命』にも描かれているこの戸田先生の悟達に達する「200万遍」が私の支えになりました。
そしてやがて200万遍に達しました。するとどうでしょう。
すべての苦悩が、そのまま変毒為薬し、願った以上の結果に変わったのです。
そこで気づいたことは、ともかくご本尊の前に座るということが、すべての基本だということでした。