デマ確定「池田大作朝鮮人説」「池田大作帰化説」は完全な嘘

 そもそも昭和という時代には、他人の戸籍などを閲覧することはそれほど難しいことではなかった。

 「◯◯は朝鮮人」「◯◯は韓国人」などのデマが出始めるのは、戸籍の閲覧が難しくなった平成以降で、有名な「社会党土井たか子在日朝鮮人」など批判などが起こり、その延長で有名人の「朝鮮人説」「帰化説」などのデマも出てきた。


(「土井たか子 裁判」では、「土井たか子朝鮮人」との記事は全くの事実誤認であり、デマ記事を掲載した月刊誌『WiLL』発行元のワックや編集長花田紀凱らが敗訴した)

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 笑い話として伝わっているが、土井たか子裁判では「土井たか子朝鮮人である」というデマに対して、土井たか子側からの戸籍謄本が提示され、「即デマ」が確定したという。

(本来であれば、池田大作氏側から戸籍が提示されれば、終わる話ではあるが、そんなつまらないネットデマには全く反応をされなかったのである)

 

 さて、2ちゃんねるなどで流通しているのが「池田大作=成太作(ソン・テチャク)」といいわゆる「池田大作朝鮮人説」「池田大作帰化説」という珍説だが、これについて、検証をしていきたい。

 

(1)池田大作の祖父の記録

 池田大作の父・子之吉は池田五右衛門の三男であることは、様々な資料からも判明している。池田五右衛門は「不入斗漁業組合」の理事のかなに名前を見ることができる。(引用『池田大作名誉会長の羽田時代』)

 ここから言えるのは、そもそも朝鮮人が日本に定住する以前から池田家が大森区の地元の漁師であるということである。

 

(2)決定的な証拠――裁判記録から、日本人と断定できる

 作家・溝口敦は反学会的な作家としても有名であるが、その溝口の証言で、池田が逮捕・起訴された大阪事件(1957年=昭和32年)の裁判における人定質問、判決文には『池田大作』として確認がとれている。そもそも裁判では通名のみの使用は不可能で、本名が必ず読み上げられる。

 もしも、「池田大作帰化説」を主張したいのであれば、帰化申請の審査が完了し許可が出たときは必ず官報に結果が公表されるので、その画像を証拠として出せばいいだけのことだ。しかしながら、未だに該当記事をみたことはない。(ちなみに、公文書を偽造すると、最高で10年の懲役が科されるので、偽造はやめたほうがいい)

 

(3)決定的な証拠――納税者記録の戸籍

 池田大作の本名は戸籍や高額納税者公示ですでに調べられており、そのに記載されている名前は「池田大作」であり、当然「成太作」ではない。

 現在は個人情報の保護の観点から行われていないが、以前は高額納税者公示制度があり、納税額や住所やカタカナでの氏名などの高額納税者のリストが公開されていた。

 四谷税務署管内の平成14年度分所得税高額納税者一覧によれば、「創価学会名誉会長池田大作」名で、四谷税務署管内第4位の1億2774万5千円であることが当時告示されている。

 高額納税者の告示には通名や芸名ではなく本名で告示されるため、池田大作名誉会長の住所が一致する「イケダダイサク」名が高額納税者一覧に掲載されているため、それ以前の官報に「帰化申請の許可」が掲載されていなければ、「イケダダイサク=ソン・テジャク」説はデマと確定する。

 当時の高額納税者公示を販売する業者もあり、実は書籍化もされている。公立の図書館の蔵書検索で、関東・東京の高額納税者一覧を閲覧すれば確認できる。

 

(4)官報に帰化の記録がない――「池田大作帰化説」は完全な嘘

 国籍法第十条に「法務大臣は、帰化を許可したときは、官報にその旨を告示しなければならない。帰化は、前項の告示の日から効力を生ずる。」とある。

 帰化すれば必ず官報に記載される筈だが「ソンテチャク」なる人物が官報に記載された証拠が提示されたことが一切無い。

 つまり官報に記載された根拠が存在しないため、池田大作朝鮮人説はデマであると断定される。

 

(5)アメリカ占領下の沖縄へ渡航のための身分証明書

 

 沖縄は、1972年までアメリカ領。しかし、実質統治権は米国にあったが、米国の領土ではなく日本の領土であり琉球政府自治統治をしていた。(最高決定機関は琉球政府だが、決定した内容を米国の琉球列島米国民政府に諮り承諾を得なければいけないという自治ともいえない複雑な形態だった)


 この時代の沖縄の人はアメリカ籍ではなく、形式上は主権は日本にあり、本土への渡航は米国から制限されていたため、渡航証明書と琉球列島米国民政府による渡航許可が必要だった。

 逆に本土から沖縄への渡航には日本の外務省でなく総理府発行の沖縄渡航専用パスポート(身分証明書)と米国民政府による渡航許可証が必要だった。

 その総理府発行の沖縄渡航専用パスポートの画像が、SOKAネットで見ることができる。(画像)

 以上のことからごく普通に考えれば、「池田大作朝鮮人説」「池田大作帰化説」は完全な嘘であることわかる。

 

(資料)

**********(央忠邦『池田大作論』)

池田大作の出生: 池田大作は昭和三(一九二八)年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のしがない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。

 

その年、子之吉(1888年、明治21年生まれ)は前厄の数え四十一歳であり、池田が親の厄を一生、業に背負わぬよう彼を隣の蒲田町に捨てた。隣人がすぐ拾い届ける手筈だったが、手違いから事情を知らぬ別人が交番に届けたため、子之吉は巡査にさんざん油をしぼられねばならなかった(池田の三兄・小宮開造談、『現代」昭和四十五年二月号)。

 

子之吉は婚姻届け出の十九日後には長男をもうけるという、ごくこだわらぬ人柄であり、その庶民性はこうした縁起かつぎの面だけでなく、池田の命名にも十分うかがわれる。彼はただ池田が丈夫に育てばとの思いから、いたって無造作に太作と名つ゛けた(タサクでなく、タイサクと読むとの説もある。池田は昭和二十八年十一月、自ら現在の大作に改名した)  池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり繁昌した一時期もあった。また、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残っているらしい

 

(資料2)時期的な矛盾

 そもそも朝鮮人が日本に入ってくるようになったのは、1880年からとされている。

 さらに事実上、日本の植民地支配が始まったのが1905年で、さらには第二次日韓協約(乙巳条約)締結により外交権を失い、1910年「韓国併合」により日本の植民地となり、本格的に日本への流入が始まる。

 池田大作の父・子之吉が不入斗(いりやまず)で生まれたのが1888年頃で、子之吉の長男・喜一は1916年(大正5年)1月生まれ。池田大作の生まれは、1928年(昭和3年)1月2日で、東京府荏原郡入新井町大字不入斗。

 1909 年時点の公式統計では、日本にいた朝鮮人はわずか790 人と記録されている。

 統計外の朝鮮人については、兵庫県の山陰線工事などで多数の朝鮮人が働き、また神戸市中では「朝鮮飴」売りの 人がいたという記録があるが、主に西日本であったようだ(仲尾宏 (2003) 『 Q & A 在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識【第二版】』明石書店)。

 東京の在日朝鮮人の人口については、

 1910年  358人

 1915年  542人

 1920年  548人

 1921年 2405人・・・以降、毎年1000人以上増加している。

 池田家に話をもどすと、1880年から1888年の約8年の間に来日した朝鮮人が、朝鮮から地理的に遠い東京の、しかも都心でもない下町、海辺の古くからある集落に住み着いて、その上、子供(子之吉)を産んだということになる。

 さらには、海苔漁師という土着の産業に従事し、家業にまでしているということを考えれば、池田一家を朝鮮人と決めつけるよほどの根拠がないと、辻褄が合わない。